塾員 in 台湾
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新光三越百貨股イ分有限公司・南京西路店 店長  鶴田 直生 氏


 名司会者で、ユーモア抜群、台湾三田会の潤滑油、と聞けば、多くの会員が鶴田さんを思い浮かべることでしょう。今回の「塾員in台湾」では、台湾歴13年となった鶴田さんに、赴任当初の思い出から、一昔前の台湾の様子、新光三越南西店の“店長方針”や最近の趣味にいたるまで、広くお話を伺いました。

−先ず、慶應ボーイ時代の思い出をお聞かせいただけますか。
Profile
1976年 法学部 
       政治学科卒


三越日本橋店、大阪店勤務を経て、1990年9月より台湾赴任。2001年より新光三越百貨店南京西路店店長。
座右の銘は「一攫千金」。本人曰く「50年いまだそのチャンスが来ていません・・・・」とのこと。
台湾三田会副総幹事。

 光り輝く素晴らしい思い出がなくて残念ですが、草野球とマージャン、あとは合コン(笑)でしょうか。

 勉学のほうでは、私は政治学科の市川○○ゼミ(*どなたかご存知の方は、鶴田さん迄お教え下さい。本人全く記憶が無い、とのことです)に所属していましたが、その市川先生は私が四年生になってからお亡くなりになり、代わりの先生に卒論をみてもらいました。卒論の提出が迫っていた時期、私は1週間ぐらい、参考文献を写しに写す作業を続けました。お蔭様で(笑)、卒論は問題なく1回でOKをもらうことが出来ました。その切迫感が、今は忘れられない思い出ですね。

 当時、大学生の就職に際しては、会社によっては面接で「大学時代の思い出の品物を持ってきなさい」いうオファーを出すことがありました。ラグビー選手だったらラグビーボールでしょう。もし私がそういう指示を受けたなら、きっとマージャンのパイを持って行ったと思いますよ。

 昭和50年前後というのは、大学生の間で麻雀がとても流行っていました。田町駅から三田校舎に続く道沿いには、当然のことながらそれを目当てにした雀荘がたくさんありました。私は、よく窓をあけて下を通る学生にむかって、「3人足りないんだけど、誰かやらないかな」と2階の雀荘の窓から呼びかけていました。


 −鶴田さんのお笑いのセンスと才能は台湾三田会でも有名です。てっきり落研関係のサークルにでも所属
  されていたのかと思っていました。

いいえ。大方の予想を裏切って申し訳ないのですが(笑)、落研での活躍はありませんでした。
 ただ、私は中学、高校を関西で過ごしたのですが、夕方6時から始まる寄席の番組が好きで毎日、見ていました。そして、その頃からの吉本興行ファンでもあります。

その影響でしょうか、私も人を笑わせたり、人が喜ぶことをするのが好きになりました。人に「ありがとう」といわれると非常に嬉しいのです。ですから、お客様に喜ばれる商品を提供する今の仕事は、自分にあっていると思います。

入社して初めて配属されたのは紳士服のフロアで、私は背広を売っていました。背広は決して安い買物ではありません。ですからお客様は、「この背広にしよう」と決められるまでは、何度か試着をされます。「こういう風なものがほしい」というお客様の希望をお聞きすることから始まって、お客様とは少なくとも15分から20分くらいお話しさせていただきます。そうして最後に、お客様が「ありがとう」といってくださる。はじめてお客様からその言葉をお聞きしたときに、その一言がとても嬉しかったのです。

当時は、大卒の人たちは、みんな売り場に立って販売業務をするのを嫌がりましたが、私は逆に大好きでした。売り場に立ちたい、といつも思っていました。上司はそんな私をみて「珍しいヤツだな」といいましたが、接客の仕事は、大変張り合いのあることでした。


−台湾に赴任されてから今日まで、どのような仕事を担当なさってこられたのですか?

 この新光三越南西店は、1991年の10月に台湾第1号店としてオープンしました。私は、ちょうどその一年前の90年9月に、台湾に赴任しました。そうです。この店の開店準備のためです。
 当時、日本からは台湾に、各分野の準備スタッフが集結しました。私は紳士服売り場の担当として、開店準備にあたることになりました。
 オープン後3年近く、紳士部門のフロアマネージャーを務めていました。その後は、高雄店や台北駅前店などの新店準備室に配属されて、新しい店舗の立ち上げに携わりました。
 商品開発部を経て、1999年に“古巣”の南西店に戻ってきました。2001年から店長を務めて早いもので三年がたちました。

−13年前に台湾への赴任が決まった際、どのようにお感じになりましたか。


 直感的に“面白そうだ”と思いました。とにかく開店準備などというジャンルは未知の世界でしたから。
 私は76年に慶應を卒業して三越に入社しました。まず日本橋本店の紳士服売り場を6,7年経験した後、大阪に転勤になって、四国を含めた7店舗の仕入れや商品管理の仕事に携わってきたのです。
 “店を立ち上げる”という未知との遭遇――しかも異国での出店、しかも台湾での三越第1号店でした。「未知への挑戦」に、胸をときめかせて台湾にやってきました。

−それでも台湾での店舗開店のスタッフに抜擢されるくらいですから、多少、中国語の心得はおありになったのですよね?

 いいえ、全く(笑)。麻雀の用語くらいで(笑)。
 でも、社内に日本語のできる台湾人の社員がたくさんいましたから、彼らに助けてもらいながら、順調に仕事ができました。

 言葉については、台湾に来てから、街の中に掲げられている漢字の看板を、一字一字、確認しながら黙読するようになりました。それが癖になって、久しぶりに日本へ戻った折に、我知らず、羽田空港に掲げてあった「安全第一」という看板を、思わず1文字ずつ、『安』、『全』、『第』、『一』と声には出さないながら確認しながら読んでいました。このときには、さすがに苦笑してしまいました。


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