塾員 in 台湾
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日商優星股イ分有限公司台北分公司 董事長兼総経理 上領 泰司 氏


 今回ご登場いただくのは、国際派ビジネスマン、上領泰司さんです。
出張・赴任で滞在された国は70カ国以上。“海外で働く”、と言う大学時代からの夢を実現されてきた上領さんですが、任地では数々の楽しい思い出とともに、何度か寿命が縮まるような恐怖も体験されたとのこと。台湾では、これからやってみたいことが沢山あります、とおっしゃる上領さん。好奇心を持ち続け、毎日を楽しく充実して過ごすこと、をモットーにされているそうです。今回のインタビューも、ぜひお楽しみ下さい!
Profile
1969年 法学部 
       政治学科卒

学生時代は長唄研究会に所属。卒業後は、富士通、ソニ−での海外勤務を経て、USC香港社長、シンガポール社長を歴任。2001年10月より、現職。遠藤周作、塩野七生、阿川弘之、深田佑介など、読書のジャンルは幅広い。現在は料理教室にも通うなど、趣味も多数。


−現在のお仕事についてお聞かせ下さい

当社(日商優星股イ分有限公司)は、ソニー製品を中心とした半導体製品を幅広く扱っている、日本の株式会社ユーエスシー(USC)の台湾支店です。商権のある半導体、電子部品を、台湾の日系企業や台湾のメーカーに販売するのが主な仕事です。

 現在、台湾企業の多くが中国に工場進出しているので、台湾での直接販売が次第に難しくなっています。そこで、上海や香港にある当社の関連会社が、大陸にある台湾メーカーへの販売を担当し、我々はそのサポートをするという形へ次第にシフトしてきています。台湾には優秀な半導体部品メーカーがたくさんありますので、この地での人脈をいかし、本社と提携できる台湾企業を探すという役割も担っています。 こちらに来て2年3カ月ほどになりますが、以前、香港の社長をやっていたときに、台湾の支店長も兼務していましたので、台湾との関係は、もう5年ぐらいになります。
 −海外経験が豊富で、いろいろな国に赴任されたようですね。

大学を卒業して最初に就職したのが富士通で、富士通に9年、ソニーに16年、そして今の会社、USCは9年目になります。この34年間で出張や赴任で滞在した国は、70カ国以上になります。実は、私は社会に出る前から海外への関心が強くて、仕事を通じていろいろな国に行って見聞を広めたい、できるだけ多くの違った国に住んでみたい、という希望がありました。それがそのごとくなったという感じです。


−最初の海外の経験はいかがでしたか。

 富士通時代に、短期間ですが、ハワイに留学しました。富士通とハワイ大学共同で設立した「日米経営科学研究所」で、約半年、英語漬けの日々を過ごしました。このときは私も随分まじめに勉強しました。

そこで習った英語は、その後、海外で仕事をするうえで大変に役に立ちました。ただそこでの経験は、単に英語の習得だけにとどまらず、東南アジアからの留学生たちともたくさん友人になりました。

彼らとは、30年近くたった今でもお付き合いが続いています。留学生の多くは裕福な階層の青年たちで、インドネシアの大財閥の息子もいましたよ。その後、仕事でシンガポールに赴任した時には、ハワイ留学中に友人になったシンガポール人のマンションの部屋を借りて住んでいました。

勉強の合間には、ハワイのワイキキのビーチによく行きました。当時は、芸能人のハワイ旅行の先駆けの頃でしたが、ドリフターズや平尾昌晃さんや女優の皆さんも多く見かけました。平尾さんは慶応の日吉高校ご出身ということで、親しくなりました。ドリフターズの皆さんとは、海辺で一緒に歌を歌ったこともあります(笑)。


−楽しい思い出ですね。


 ええ。ただ、その半年後の、日本に戻るときのことですが、九死に一生を得る事故に遭遇しました。飛行機に乗って離陸して間もなく、エンジントラブルが発生したのです。窓から外を見てみると、エンジンが火を吹いているではないですか。それを見た瞬間、「大変なことになった!」と血の気が引くのを感じました。
 タンクからオイルを空中に廃棄しているという報告を聞きながら、「万が一、オイルに引火すれば、爆発だな」と、生きた心地がしませんでした。飛行機は何とかハワイに引き返しましたが、ハワイでの思い出を胸に危うく海の藻屑となるところでした。

−ご無事でなによりでした。ハワイの後も、海外赴任でエキサイティングな体験の連続だったのでしょうか。

帰国後は、海外事業本部に配属されたのですが、すぐにブラジルのリオデジャネイロに派遣されました。27歳から30歳までの約3年間です。1980年前後のことですが、当時、リオは、サンパウロと違って日本人がほとんどいませんでした。
 加えて、当時、ブラジルでは、ポルトガル語しか通じませんでしたから、英語では、生活するにも不自由する状況でした。そのため最初は、忙しく仕事をしながら、同時並行でポルトガル語を学びました。半年ぐらいで何とか日常語は聞き取れるようになりましたが、つくづく新しい言葉を覚えるというのは大変なことだと思いました。
 この3年間のあいだに、中南米の国々を調査で回りました。リオはカーニバルが世界的に有名ですが、それを3回経験しました。1年目は桟敷で見ているだけたったのですが、2年目からは私もクラブで仮装して、お酒を飲んでサンバを踊りました。強烈なカーニバルの熱気のなかで、とても楽しかったですよ。陽気なブラジルの人たちに囲まれて、「人生ってこういう風に楽しむんだ」と気づかされた感じがしました。当時、「ブラジルは将来大国になるだろう」という予感もあって、「この国に移住したい」とまで思ったぐらいです。

−最初は大変でも、ブラジルと完全に一体化されたご様子ですが、それでは日本に戻りたくなくなったのではないですか。

その通りです(笑)。日本に戻って暫くして、ソニーが海外要員を募っているのをたまたま見つけたものですから、早速、応募しました。2カ国語が応募の条件だったので、私は英語とポルトガル語と書いて応募したのです。そうしたら、合格してしまいました。当時はまだ終身雇用が当たり前で、転職は今のように多くない時代でしたが、私はまだ30歳そこそこの若い年齢でしたので、海外で働く情熱が燃え滾っていたのでしょうね。“自分を試してみたい”という気持ちで、ためらうこともなくソニーに転職しました。

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