塾員 in 台湾
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−陳先生ご自身は、お父様からどのような影響を受けましたか。


 非常に沢山の影響を受けました。父のことは深く尊敬していますし、今私が考え、実行していることの多くは、父の考えの影響を受けていると思います。たとえば、私は日本から帰国したとき、年齢や経歴からいえば、院長や学長の職に就くこともできました。たしかに、自分でやっても上手くいくかもしれないが、他の優秀な人にやってもらったほうが上手くいくこともある、というのが父の考えでした。私は、中和紀念病院の副院長は務めましたが、それより上のポストは断り、サポートするほうへ回りました。それは父の教えであり、私自身もそれを尊重したいと思いました。


そしてもう一つ父が常に言っていた事があります。それは、社会と人に迷惑をかけないということです。迷惑をかけられても気にしない。しかし、決して迷惑をかける側になってはいけない、というのが父の考え方でした。

左二:陳啓川氏
「慶應義塾優勝旗」を手に
 父は大変多趣味な人で、私も随分と影響を受けました。とりわけスポーツを愛した父は、慶應で有名な競争部の選手でした(左写真)。短距離は速く、高飛び、幅跳び、槍投げなど何でもこなしたそうです。私も父に運動を奨励されました。私は水泳が大好きで、高雄中学の時は平泳ぎの代表になったこともありました。スポーツのほかには猟や射撃、写真、ゴルフ・・・・父から教えてもらったことはたくさんあります。

 父は大のゴルフ好きで、日本から台湾に帰国して2年で淡水のゴルフクラブのチャンピオンにもなりました(下写真)。

市長を務めていた時代、父は学校の設立、道路の整備、運動場の建設に力をいれました。戦前には高雄にも、寿山というところにゴルフ場があったのですが、戦時中は要塞となってしまいました。市長になって、海外からお客さんが沢山来ても、高雄には何もない。そこでゴルフ場を作ろうと思いついたそうです。当時、蒋介石総統はゴルフをブルジョアのスポーツだといって排斥していたのですが、父は“ゴルフは人格を形成し、教養を高め、体力を増進するのにはもってこいのスポーツですよ”と言って説得し、高雄に4年の年月をかけて、澄清湖ゴルフ場を作りました。



左:1934年 淡水ゴルフクラブチャンピオンに

上:1972年 日本の岸信介首相(左2)と
台湾澄清湖ゴルフ場にて

 
 


−お父様は、1960年から68年まで、高雄市長を2期務められました。台湾高雄の陳家といえば、日本統治時代前からの名門家で、現在も「台湾三代名家」の一つとして名高いわけですが、その当時、大陸から来た中国国民党が、台湾人のお父様を高雄の市長に推薦した理由はなんだったのでしょうか。お父様は政治には全く興味がなかったと伺っておりますが。

 父は祖父の時代からの会社を経営していましたので、政治には興味がありませんでした。市長選に出馬してくれないかと国民党から要請があったとき、父は、自分は政治の経験がなく、政治には素人であるということ、また、大変親孝行な父でしたから、年老いた母親のそばで親孝行をしたい、と言う理由をあげて、出馬の要請を何度もお断りしました。しかし最後には、蒋介石総統から父宛に手紙が届きました。その手紙には、「『移孝作忠』−孝を以って忠につくしてください」と書かれており、総統から直々に出馬の要請がされたわけです。
父はそこで、高雄市の発展のために力を尽くすことを心に決め、出馬の要請を受け入れることにしました。そうして最初の選挙では、父が出馬手続きをしたら対立候補が皆辞めてしまって、競争なしで当選しました。2期目は競争相手がいましたが、大差で再当選されて、8年間の任務を務めたわけです。市長の人選において、政治と無関係だった父が推薦されたというのは、おそらく誠実さと、私利私欲がない人間だと判断されたからだと思っています。


−南部に、私有財産で学校と病院を作った名望家がいる・・と。

 そうですね、1つ面白いエピソードがあります。私が学校にいたとき、高雄市政府に大陸から来た役人がいました。文学的に教養のある人だったようで、高雄医学院の教師になりました。あるときその人が私のところに来て言うのです。「あんたのお父さん、何か勘違いをしているのではないですか?この土地というのは子孫に残せる大変な資産となる土地ですよ。どうして残せる土地を寄付なんかしたのですか」と。父のしたことは、そういう意味でも、当時の政権を握っている人たちの目に留まることだったのかもしれません。

 今でもその傾向はありますが、当時、政治に携わる人の殆どは、出来るだけ多くのコネを作って利益を手にすることばかりを考えていました。しかし父は市長になっても、宿舎も使わず、車も自分の車を使用するような人でした。給料をもらっても下の人に配っているぐらいでしたから、うちからの持ち出しのほうが多かったのです。北京語を強要され、台湾語は話してはいけないという時代でしたが、父はいつも台湾語で演説をしていました。高雄市内の学校に通っていた人たちが、当時を思い出して、口々に父の台湾語の演説がとても印象深く心に残っている、と言ってくれます。台湾人が抑圧されていた時代に、父が公の場で堂々と台湾語で演説したことは、今でも語り草になっています。





                                
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