塾員 in 台湾
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医学博士・ 高雄医学大学名誉教授  陳 田柏 氏


Profile
1933年 台湾・高雄市生まれ
1961年 高雄医学院医学系卒業
1973年 慶応義塾大学医学博士
慶応義塾大学専任内科助手を経て、
東京歯科大学市川総合病院専任内科教授
1988年 台湾へ帰国
高雄医学院附設中和紀念医院 血液腫瘤内科主任
       〃       内科主任
       〃      感染内科主任          
1991年 高雄医学院附設中和紀念医院 副院長
1993年 台湾血液学会理事長
1996年 台湾血液及び骨髄移植学会理事長
現在は、高雄医学大学董事会顧問のほか、南和興産株式会社董事長、
高雄ゴルフクラブ理事長を務める。


 今回ご登場いただいた陳田柏博士は、親子三代慶応義塾のご出身です。
父君は、台湾三田会の大先輩で、元高雄市長の陳啓川氏です。
台湾の名門医科大学である高雄医学大学は、今は亡き陳啓川氏が
自らの財産を提供し、台湾の民生向上と人材育成に貢献すべく設立した学校です。
“父の人生に最も影響を与えたのが慶応義塾の精神でした”、と
力強くおっしゃった陳博士のお話は、若き頃の日本留学時代の思い出、
父への想い、今後の抱負−など、途切れることなく続きました



−日本へ留学し、慶応義塾で学ぼうと思われた動機をお聞かせください

 留学のきっかけは、父の助言です。
 私は1961年に高雄医学院(現在の高雄医学大学)を卒業し、兵役を終えてから暫くの間、医学院附設の中和紀念病院に内科医として勤務していました。

 私は学生時代、生化学基礎学や病理に興味を持っていました。しかし専攻を選択する段階になって、親戚の医師から“折角医者になるのだから臨床医学をやった方がいい”、と勧められるようになりました。一方、私の父は全く別の考えで、“公衆衛生学をやりなさい”と言うのです。父は私に、個々の患者を診るだけでなく、全体的な医療の改善や、広い視点で国民の健康を重視する研究を私に勧めました。

 私としては、いずれ公衆衛生をやるにしても、臨床を経験した基礎があってから学んだ方がいいと思い、先ずは内科で臨床を勉強しようと決めました。卒業後、医師として2年半働いている間、“このまま田舎の医者になるよりは、もっと多くの知識を身に付けて視野を広げたほうがいい”、という父の助言があって、日本へ留学することを決意しました。


−お父様(故・陳啓川元高雄市長)も慶應のご出身ですね。


 はい。留学先に慶應を選んだのも、父の強い勧めがあったからです。父は中等部から大
学までを慶應で過ごしました。とにかく慶應が大好きで、小さい頃から私はよく慶應の校風や「独立自尊」の精神について聞かされてきました。そんな父の影響で、私は幼いころから慶應には親しみを感じていました。
1965年
32歳の時に、私は慶應義塾大学医学部内科専攻生として、日本での生活をスタートさせました。

〔写真:1912年。父・陳啓川氏13歳(右)。慶應幼稚舎に通っていた弟(叔父)と〕

−実際慶應で過ごされた日々ははいかがでしたか。


 日本へ行って最初の1年は、医師の国家試験のための受験勉強に費やしました。私は台湾の医師免許は持っていましたが、日本ではそれが通用しません。ですので、日本の医師免許を取得するため、再度試験を受ける必要がありました。台湾と日本では受験科目に違いもありましたので、日本での新生活に慣れる間もなく、受験勉強に身を投じることになりました。1年後、試験に無事に合格し、私は専攻生と内科助手の資格で慶応義塾大学病院に勤務することになったのですが、ここで一安心はできませんでした。

 というのも、日本は台湾と違って、助手の医師というのは、患者の診察と医学生の教育指導に責任を持たされていながら、“無給”でありました。そうなると、生活は全て家からの仕送りで賄うか、アルバイトで生計を立てるしかありません。しかし当時、留学生はアルバイトを禁止されていますから、私は経済面では父からの援助で暮らすしかありませんでした。専攻生という立場とはいえ、普通の医者と同じく患者の診察に携わり、連日朝から働いていたわけですが、無給のただ働きのうえに、大学にも学費を払わなければならない状況でした。

 学位取得の為の研究は、病院で患者を診終わった後、だいたい六時頃から始めていました。毎日、夜の十時、十一時ごろまで実験室にこもる生活を続けていました。自分の研究以外に苦労したのは外国語です。学位をとるには2ヶ国語の外国語試験を受けることが必要とされ、私は英語とドイツ語を選択しました。東大は英語のほかに中国語と日本語を選べたのですが、慶應は選ぶことができませんでした。ドイツ語は一からの勉強でしたので、マスターするのにもひと苦労でしたね。73年に博士号を取得しましたが、その後も暫く研究と臨床を続けていましたので、結局、日本での11年間は新年と夏休み以外、土日はほとんど休んだ記憶がありません。

−大学での級友たちとの日々はいかがでしたか。

 大学の教授は皆とても熱心に指導をして下さいました。特に思い出されるのは、長谷川彌人教授です。長谷川先生は、大変厳しい先生でしたが、患者をとても大切にされて、医者としての倫理を教えて下さいました。先輩たちは、臨床でも熱心に指導してくれましたが、研究で困ったときにも快く手助けしてくれました。私は、教授や先輩たちとの温かい絆を実感することができました。心から感謝をしています。

 学位を取得してからは、三重県・伊勢の慶應病院に派遣されました。伊勢慶應病院は、慶応大学が昭和49年に伊勢の私立病院から寄付を受けて開院した医院です。診療業務を始めるにあたり、大学が第一陣の医師を派遣することとなり、私は血液科で最初の医師として派遣されました。同僚の平均派遣期間が3ヶ月だったところを、私は8ヶ月勤務し、入院患者を35人から40人、担当しました。1週間のうち4日間伊勢で勤務し、3日間東京という生活で、新幹線と近鉄を乗り継いで片道5時間の通勤も続けた大変さはありましたが、伊勢は魚もお肉も美味しいところでしたので、食生活には恵まれていました。

 医療活動以外でも楽しい交流がありました。婦長さんの息子さんはステレオが好きで、私も秋葉原で材料を買って、手作りでステレオを作りました。配線からなにから自分で作って、結局伊勢にいる間、ステレオを1台作りました。今でも東京の家にありますが、しっかり音が鳴ります。あの頃は新幹線も満員だったので、小さい椅子を持っていって、新幹線の通路に座って部品を組み立てたりしました。今だったら怪しいと思われて事情を聞かれてしまいそうですが(笑)。

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