塾員 in 台湾
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東呉大学商学院経済学系副教授(元中央信託局調査研究處研究員) 陳 俊龍 氏

Profile
1936年 台湾宜蘭県生まれ
1964年 来日 慶應義塾大学商学研究科入学
1966年 商学修士取得
1969年 博士課程修了
台湾帰国 中央信託局研究處 研究員 (〜2002年1月)
1986年 商学博士取得 
現  在 東呉大学商学院経済学系副教授


 今回は、慶應義塾大学・台湾留学生初の商学博士を取得された陳俊龍氏のご登場です。
修士号を取得してから商学博士号を取得するまで、かかった年月はなんと20年!台湾へ帰国後も、毎年欠かさずレポートを提出し続けたという陳先生。「私は意志が強かったんですね」と豪快に笑いながらおっしゃる先生の研究生活を支えたのは、、『老子』の言葉でした。台湾三田会副会長も務められた、陳先生のエネルギッシュなお話から、学び続けること、諦めないことの大切さを教えていただきました。



−日本への留学をお決めになり、中でも慶應義塾大学を選ばれた理由をお教え下さい。

 先ず、留学先を、アメリカでもなく、ドイツでもなく、なぜ日本にしたのかということから申しますと、それは専ら父の勧めがあったためです。

父が日本に好感を持っていたことも理由の1つですが、父は台北工業専門学校(今の台北科技大学)建築科の卒業生で、記憶が正しければ、その建築科の千千岩先生が、父に、同校建築科卒業生でもあった香川芳明さんという方を紹介して下さいました。その香川さんが、「もし息子さんが日本に留学を希望するのなら、私が身元保証人として面倒をみましょう」とおっしゃって下さったのです。当時、台湾人には、アメリカやドイツも留学先として人気がありましたが、私はそのどちらの国にも、保証人となってくれるような知人がいませんでした。こうした事情によって、私は日本を留学先として選ぶことにしたのです。

留学にあたっては、台湾の教育部の試験に合格することができました。この試験はなかなか難関だったのですが、それに合格したことで、慶應、早稲田、明治の3大学のうち、自分の希望する大学へ進学出来ることになりました。

−その中で、慶應義塾を選択されたのはなぜだったのでしょうか。

これも、父の勧めによるものです。
  父は私にこう言いました。「ある新聞の報道によれば、日本の皇太子殿下の御教育は、歴代、東京帝国大学の教授が務められてきたのだ。しかし、今の皇太子殿下(今上天皇)の御教育係りは、東京帝国大学ではなく、私立の慶応義塾大学の塾長だった方が務められたそうだ」と。父は、「慶応義塾大学は日本の立派な大学だ」という認識を持ち、私に慶應義塾への入学を勧めたわけです。当時の私は、それぞれの大学のカラーがまだ十分にわからなかったものですから、父の勧めに素直に従って慶應義塾で学ぶことにしました。


−実際慶應での学生生活はいかがでしたか。


 私が大学院商学研究科へ入学したのは、ちょうど東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年のことです。それから約6年間、慶應の三田山上で学生生活を送りました。

留学生活を終えて台湾へ戻ってきてから、すでに34年近い長い年月がたっていますが、今でもこの6年間の学生生活は、昨日のことのように懐かしく思い出されます。とくに、塾での有意義なゼミの活動が印象深く心に残っています。

台湾の大学の学部では、ゼミの活動というのはありませんでした。教授の指導を受けながら、学生が自らの研究を発表、討論するという学習の方法は、私にとって大変、斬新なものでした。国際経済学の学問をさらに深めたい、という思いで大学院に進んだわけですが、まさに新しい環境、新しい学習方法で、自分の研究に打ちこむことになりました。

 私の指導教授は、商学部の白石孝教授でした
先生は今慶應義塾大学名誉教授として、現在も研究を続けておられます。
先生は、お歳も80歳を超えられていますがとてもお元気です。
(写真:白石孝教授)
慶應の白石ゼミは、1期から47期まで続きました。私はその中で、18期にあたります。ゼミOB相互の交流も途切れることなく続いています。

 白石ゼミは大変厳しいゼミでしたが、その分、学生の頑張りも目を見張るものがありました。その結果、卒業後、社会に出て以降も、大企業の社長になったり、社会的に活躍するゼミ生が多く輩出されました。

 白石先生は、私がゼミ入りした時は慶應志木高校の校長も兼任されており、その後は、大学の商学部長、常任理事も歴任されました。大変お忙しかったにもかかわらず、先生にはいつも厳しくかつ懇切丁寧に指導をして頂きました。このような立派な先生にご指導を受けたことは、今でも私の心の中に深く生きています。

 一方で、慶應で過ごした毎日は、刺激的で多彩でした。深夜までの勉強、教壇に立ってのレポートの発表、夏休みの長野県での合宿。特にこの長野の野尻湖のゼミ合宿は、一生の思い出です。合宿では学部の3、4年生も一緒ですから、気持ちも若返ります。

一緒に勉強をするだけでなく、ソフトボール、水泳、バレーボールで汗を流し、焚き火を囲みながら歌を歌ったりもしました。本当に生涯忘れられない楽しい思い出です。


−留学して2年後に、商学修士を取得されましたね。

 はい。修士号を取得するまではとても順調だったのですが、修士をとってからが大変でした。私が博士号を取得したのは、それから何年後だと思いますか? 昭和61年ですから、修士号取得してから20年後のことです。20年たってやっと、先生は私に博士号を下さいました。本当に厳しい先生でしょう(笑)。 

−そうしますと、20年間、台湾に戻ってからもずっと論文を提出され続けていたのですか?

ええ。修士号を取得後の3年間は、引き続き慶應の商学研究科博士課程で勉強をし、単位を全て取って無事に課程を修了することができました。しかし、なかなか博士号を取得するまでにはいたらなかったため、やむを得ず、台湾に戻ることを決意したのです。

 しかし、帰国後も、定期的にレポートを提出し続けました。その結果、私の論文は本当に持ちきれないぐらいたまりました(笑)。努力が20年目にやっと実って、先生が、「では、東京で試験をしましょう」とおっしゃって下さったのです。そのとき、私はもう50歳になっていました!(笑)。

考えてみれば、私も意志が強かったんですね。「博士号を取るぞ」と心に決めて、毎年毎年、先生にレポートを提出していたのですから。20年かかって博士号を取得できることになり、私は当時の商学部長の清水教授に挨拶に行きました。

そうすると、清水教授は2つのことを私におっしゃいました。1つは、「なぜこんなに遅く貴方に博士号を与えたのかというと、貴方が“テストケース”だったからです」とおっしゃいました。

その時まで知らなかったのですが、慶応義塾大学は、それまで台湾留学生にはまだ1人も商学博士を授与していなかったのです。つまり、私が慶應台湾留学生初の商学博士で、清水先生は、「君が“ザ・ファースト”(最初)ですよ」と教えて下さったのです。

 そして2つ目には、「以後、台湾留学生の後輩たちには、このような長い期間をかけずして、博士号を与えられるようになるでしょう」とおっしゃいました。実際、私の後輩は、7年で商学博士を取得しました。私は20年ですから、私の三分の一ですね(笑)。

たしかに時間はかかりましたが、慶應で初めて台湾出身の商学博士になったことで感慨もひとしおでしたし、自分の努力が、台湾の後輩に良い道筋をつけることができたとするならば、大変嬉しいことだと思いました。

<学位記:左、修士号(S41年) 右 博士号(S61年)>



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